奈良市長 仲川げん 公式Webサイト プロフィール

奈良を元気にする仲川げんのプロフィールページです。

プロフィール

仲川 げん(なかがわ げん)

1976年 3月6日 奈良県生まれ
1994年 北大和(現・奈良北)高校卒業
1998年 立命館大学経済学部卒業
1998年 帝国石油株式会社(現・株式会社INPEX)入社
2002年 奈良NPOセンター勤務開始
2009年 奈良市長選挙 脱利権・脱ムダを訴え当時全国で2番目に若い33歳で初当選
2011年 「日本を立て直す100人」(AERA)に選出
2013年 奈良市長選挙 2期目当選
公約として掲げた「行政のムダゼロ」「生活の不安ゼロ」「観光の渋滞ゼロ」の3大ゼロ宣言の実現をはじめ、様々な市政改革に取り組む
2015年 中核市市長会会長 就任
以来、2年間に渡り、地方首長の立場を代表して国に対する積極的な提言活動を行ってきた
2017年 奈良市長選挙 3期目当選
2019年 奈良県市長会会長 就任
以来、2年間に渡り、県内12市の立場を代表し、県等に対し積極的な提言を行ってきた

現在45歳。三児の父として、子どもや孫の世代に責任の持てる政治をめざす
仲川げんのニュースレター「 ゼロ から創る奈良」はこちら
仲川げん近影

仲川げんの素顔

  • 家族:3人の子どもと妻、猫(21歳)の6人
  • 趣味:写真撮影、料理、3歳から始めた水泳
  • 特技:身近な人のモノマネ、嫌なことも一晩寝れば忘れてしまう
  • おすすめ奈良スポット:県庁東の交差点から、生駒山までスコーンと抜けた空
  • 最近感じた幸せ:出張の帰り、奈良駅に降りた瞬間、草と鹿の匂いがしたこと
仲川げん近影

後援会スタッフが聞 仲川げんの更なる素顔

幼少期のエピソード

仲川げんの幼少期

趣味のひとつ「料理」との出会い

幼稚園のころ、料理教室に通いはじめ台所に立つ機会が増えた母親の影響を受け、私も一緒に料理をすることが楽しみのひとつになりました。

その当時から、日曜の朝食づくりは私が担当。椅子とつっかえ棒で台所の入り口にバリケードを張り、ひとり創作料理に没頭しました。慣れない調理器具の扱いにも両親はひやひやしていたと思いますが、幼児の思いのままに創りだされる、海のものとも山のものとも分からぬような料理も「おかげで日曜日は私たちは寝坊ができる」と、感謝とねぎらいの言葉とともに食べてくれた両親でした。

そのおかげもあり料理作りは得意分野へと昇華。小学生のころ授業参観で行われた「リンゴの皮むきコンテスト」で優勝、この頃から料理人魂(?)に火がつき、お楽しみ会にクラス全員分のクッキーを焼いて配ったことも。

仲川げんの幼少期

「人と違うこと」も応援してくれた両親

小学校に上がる前には、こたつに電話とメモ帳を置き、姉と一緒に「会社」運営ごっこをしました。

また3年生の頃には、自宅の庭に大きな穴を掘り、「ニューヨークまで繋げる!」という壮大な?プロジェクトを立ち上げ。近所の子どもを集めて交代制のチームを組み、約1か月間進めました。

新人には指導をし、昼食には自ら握ったおむすびを振る舞い、そしてプロジェクトは着々と進行。底から水が染み出てきたときにも、父と母は怒るどころか面白がり、応援してくれました。穴が直径2メートル、深さ2メートルほどに達したころにガス管にぶちあたりあえなく断念したものの、「何かをやりたい」という意思を尊重してくれた両親の姿は、今も心に残っています。

東京でのサラリーマン経験を通して得たこと

仲川げん近影

もともと自分で起業するなり、何かしたいと思っていましたが、その為にまず上場企業などいわゆる大企業の運営方法について勉強しようと思い、東京の石油会社を就職先に選びました。

経理部に配属された後、「いい加減なやつは許さねえ」が口癖の厳しい鬼課長にかなり絞られました。そのおかげで、お金の流れを通して『組織の動きを理解する力』が培われたように思います。

奈良NPOセンター時代にはこんな活動をしました

3次の1300年に向けて世界に発信

私が奈良に戻った2001年は、95年の阪神大震災後にNPO法ができて、あちこちにNPOの卵が立ち上がり始めた時期でした。みんな予算や人手が足りないながらも、それぞれに情熱を持ち、なんとか社会を変えようしている。その様子に心動かされ、NPO法人への支援を行う中間支援組織「奈良NPOセンター」で活動をはじめました。

奈良で暮らす外国人の支援活動からはじまり、東大寺アートプロジェクトやLove Letter Project等、アートイベントの企画・運営のほか、体験型観光プログラムや奈良まほろばソムリエ検定の開発など、奈良に根ざした地域振興策にも携わりました。

振り返れば、ふるさと奈良の現状と課題を新しい目線で見つめ直し、そして行政の目が届かない教育や地域の問題を草の根から改善する必要性を感じた当時の経験が、市長立候補への原動力に繋がっていきました。