市民が主役の奈良市政をめざす仲川げんの活動日記。

仲川げん
2013年3月27日 05:32 [日記]

春咲きの街

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毎年この季節に行われる恒例行事の1つに「春咲きコンサート」(http://harusaki.jp/)があります。この事業は市内の福祉施設で働くスタッフが中心となり、障害のある、なしに関わらず、全ての人が自分らしく生きられる社会を創ろうと、実行委員会形式で開催されています。1997年からスタートし、今年で何と17回目を迎えます。

この事業がすごいのは、市からの補助金を一切受けていない事。半年ほど前から会議を重ね、本番の準備もボランティアで見事にこなされています。ここ数年は「春咲きの街」と題し、会場の100年会館内に理想の街を表現されています。挨拶の中で私は「皆さんは、『春咲きの街』は本物の街ではなく、作り物の世界だと思われるかもしれない。しかし普段はあまり光が当たらないだけで、私たちが暮らすこの街は多様性に溢れ、障害の有無や年齢に関わらず、いろんな考え方や価値観を持つ人が多彩に織りなす街であり、まさに春咲きの街そのものだ」と述べました。(ちなみに司会は南かおりさん。長年ボランティアで関わっておられます)

奈良市は1972年に全国に先駆けて「福祉都市宣言」を行った街であり、これまでも政策の中心に「福祉のまちづくり」を位置付けてきました。一方、この40年間で高齢化率は8%から25%に急上昇、障害者も年々増加しており、もはや全てを行政が担う事は困難な時代になりました。一方、この間の大きな変化として民の立場で福祉や公益活動を担う取り組みが大きく広がりました。それに伴い、行政の立ち位置は自ずと補完的役割に移行して行くと思います。もちろん、行政としての役割や責任を放棄するのではなく、より当事者による主体的な福祉に転換するという形です。行政も従来のような「支援してあげている」という上から目線を捨て、障害者が暮らしやすい街は、結果として全ての住民にとって優しいまちづくりにつながる、という発想に転換しなければならないと肝に銘じています。

私はこれからの「福祉都市」を考える中では、支える側・支えられる側が一方通行で立場が固定されるのではなく、日常生活で支援を要する人も、出来る範囲で自立し、余力があれば人や社会を支える側にも回る姿が理想だと思います。帰りがけに声をかけて下さった保護者の方からは「うちの子どもは障害はあるが、パソコンは得意。障害があるだけで全ての能力に欠けるかのように思われるのは不本意。健常者だって全ての能力が均一の人なんていないでしょう」と仰ったのが印象的でした。障害者の方にも当然個性があり、好き嫌いがある。ある部分は支援が必要かもしれないが、それはその人のごく一面でしかない、という当たり前のことを社会全体で共有し、尊重できる世の中を創っていかなければなりません。これからの福祉や公共の姿を、改めて考えた一日でした。

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